2019/02/14 レオパレス問題が語るもの

賃貸アパート大手の「レオパレス21」が建築する建物に施工不良が多数発覚した。同社は1996年3月から2001年1月に施工した「ニューゴールドレジデンス」シリーズの641棟について、天井の耐火性能を満たさず特に危険とされ、入居する7,782人に3月までの退居を求めるという緊急事態となっている。

3月といえば賃貸市場の最繁忙期である。この時期に退居を求められても、果たして入居者は引っ越し先や引越業者をスムースに決められるという保証はない。不備が見つかったのは33都府県に及び、入居者はもちろんのことアパートオーナーも途方に暮れていることだろう。

賃貸住宅市場の歴史概観(戦後を中心に)

1945年(昭和20年)8月15日、日本はポツダム宣言受諾を決定し、昭和天皇による「終戦」の勅書がラジオで放送された。東京をはじめとする大都市は度重なる空襲によって多くの家屋が焼失し、まさに焼け野原となった。東京では家から焼き出された人々はもとより、戦災孤児や引揚者、復員兵は倉庫、兵舎やバラックで雨風をしのいだ。特に上野駅周辺は、多くの人々や戦災孤児であふれかえり、寒さや飢えで毎日何人もの餓死者がでるという状況であった。

1947年(昭和22年)には、東京都の人口は約500万人まで膨れ上がり、住宅不足は400万とも500万ともいわれ、危機的な状況が続き、住宅需要を満たすために90年の歳月が必要とも叫ばれていた。

当時は貸家業は民間(地主)を中心として供給されてきたため、供給不足を解消できないという理由もあった。それは貸家を建ててもそれに見合う家賃がとれなかったことも一因であると言われた。今で言えば、「貸家業は慈善事業じゃない」ということでもあろう。このような状況下では、政府も民間を中心とした貸家業に頼ることはもはや限界と考え、1955年(昭和30年)に日本住宅公団が発足し、住宅不足を解消すべく賃貸住宅の供給を急ピッチで行った。これが現在の独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)となる。

その後、徐々に住宅不足は解消されていくことになるが、首都圏では戦後復興と高度経済成長期に入り、地方から労働者がどっと押し寄せ、戦災による住宅不足は流入する労働者の住宅不足へと変化した。そして「持ち家ブーム」の到来による需要を解消すべく、住宅地は郊外へと広がっていったのである。もちろんこの頃は2度のベビーブームにより人口は大幅に増加した。

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これからの賃貸市場

現在、日本の抱える大きな課題として、少子化による人口減少と労働不足があり、これからは首都圏を除く多くの都市で人口の減少が見込まれている。戦後の貸家業は需要超過によって大きな市場となり、その後バブル期を経て、貸家業は「不動産投資」「アパート経営」という呼び方で定着したが、これからは必ずしもかつてのような需要が見込まれる時代にはないということも踏まえる必要がある。

貸家業と言われた戦後直後であっても、それはあくまで「ビジネス」であった。ましてや不動産投資、アパート経営と称するならば、やはり利益を生まなければ経営は成り立たない。加えて主要都市や地方都市でも、新たに空き家問題という人が住まない家屋も増加している。

マンションやアパート経営は株などの金融商品とは異なり、20年、30年の長期で考えること、そして建物は必ず劣化し、補修や修繕などの追加費用がかかってくるという意識も重要である。オーナーとなれば安定的に利益を得られる時代は過ぎ、相続税対策や将来に備える年金としての資産となるには多くのリスクをはらむ時代に突入したということを、これからオーナーとなる人たちは考えてほしいと願う。