2020/03/03 磯村英一氏 (1) ~「学問を忘れるな」の精神~

皆さんこんにちは、日本不動産研究所の幸田 仁です。ここ数週間でコロナウィルスの蔓延を防止するために学校休校が相次いでいます。私の次男も今月、高校の卒業式を迎えるのですが、保護者は出席停止という連絡が寄せられ、その影響の大きさを実感しています。

さて、今回は弊所の機関誌「不動産研究」に多くの寄稿や論文を寄せた磯村英一氏について、その生い立ちや人生観を紹介しつつ、日本不動産研究所が取り組む業務に対して磯村氏が求めた精神・信念について紹介したいと思います。

都市社会学者 磯村英一氏

磯村氏は、明治36年(1903年)に東京都港区で長男として生まれた後、東京外国語学校ロシア語学科を卒業した年に関東大震災に遭い、被災時の負傷で父を亡くし(母は既に他界)つつも、昭和3年(1928年)東京帝国大学文学部社会学科を卒業、その後、東京市の公務員として文書課長、紀元2600年記念事業部総務課長、豊島区長、東京都渉外部長等を歴任し、戦後の公職追放令によって解職されました。

その後、東京都民政局長に復職し、昭和28年(1953年)東京都立大学教授として学者の道に転じます。都立大学を定年によって退職後、昭和41年(1966年)東洋大学教授として招かれ、東洋大学教授、そして昭和44年(1969年)に東洋大学学長となり、公務員から研究者として生涯を通じて学問に携わり、日本都市学会をはじめとする多くの学会の会長、国政における審議会の委員や協議会の会長を務めました。

恩師の言葉「学問を忘れるな」

関東大震災の体験

磯村氏は、子供時代は父の事業が好調だったこともあり品川の西洋館で暮らしていたそうですが、大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生しました。磯村氏はアルバイトで父と同じ職場で翻訳をしているとき、大きな揺れが襲いかかりました。磯村氏は難を逃れましたが、同じビルで働いていた父は戸棚の下敷きになり、その負傷がたたり2年後に他界しました。後にこの体験を磯村氏は次のように表現しています。

「災害は、私の専門からすると、正常な”人間関係の喪失”」である。「人間は”社会的動物”といわれ、それが社会的な”拘束”によって人間性を保つ、それでも災害といった生活環境に異変が起こると、この動物性が露出する。」

苦難を乗り越えての就職

両親を失った磯村氏は東京市社会局でアルバイトをしていた関係で、東京市役所に就職しました。辞令を受けてまず向かったのは卒論の指導を受けていた東大の戸田貞三教授への報告でした。これまでの様々な苦難を考えれば就職できたことを喜んでくれるかと思いきや、戸田教授は「君、学問するために大学に入ったんだろう。就職したって学問を忘れないようにし給え」と叱咤されたそうです。このときの戸田教授の一言が磯村氏の生涯を通じて守り続けた精神だったと回想しています。

様々な体験を経て研究者へ

大学での研究

その後、磯村氏は渋谷区長時代の空襲体験などを経て、東京都立大学の教授となりました。この頃の磯村氏は社会の底辺(スラム)と東京の盛り場を次々に調査し、日本の都市問題について数々の成果を発表しています(資料は一部空襲によって焼けてしまったそうですが、その多くを目黒図書館に寄贈したそうです)。

大学学長として

そして磯村氏が東洋大学の学長を務めたとき、いくつかの不満があったそうです。その一つは、東洋大学の学祖である井上円了氏が、当時大学の役割を具体的に現していなかったということに対してです。しかし磯村氏はその意図を、それは大学を継ぐ教員・職員・学生が自ら”創造”すべきもの、と解釈しました。”創造”がなければこれからの大学はコンピューターシステムの開発の中で、その存在そのものが否定されると思ったからだそうです。実に先見性のある磯村氏の解釈だと感じます。

都市・不動産とは何かについて考えさせられる多くの論文

磯村氏は2度の東京の廃墟を体験し、都市とは何か、人間とは何か、地域社会とは何かについて多くの論文や寄稿文を「不動産研究」に残しています。社会学者は単に書物を読み、資料を調べて思考するのではなく、実際に現場に赴き、その環境や人々の生活を体感することで蓄えた経験と知識を総合的に検証しながらまとめ上げる膨大な時間を要する学問だということが、この「不動産研究」からも読み取ることができます。

そしてこの原動力になったのは、かつての東京大学の恩師(磯村氏にとって恩師と呼べる人は2人しかいないそうです)、戸田貞三教授の「学問を忘れないように」という言葉だったと回想しています。この戸田教授の発した「学問」とは、役人であれ、学者であれ、単に指示を仰いでその通りに動くのではなく、常に探究心や洞察力、深い思考力をもって物事に当たれということなのだろうと感じます。

機関誌「不動産研究」に掲載された磯村氏の論文等を読むと、戦後の東京は光の部分と影の部分が交錯しながら復興を遂げていったという、希望と憂いが入り交じった内容が散見されます。その中にはまるで予言者であるかのような記述もみられます。多難な人生を送り、公務員・教授としての経験をもつ都市社会学者 磯村氏が、「不動産研究」という一機関誌にこれほどの示唆を与えてくれたことに心より感謝するとともに、日本不動産研究所が取り組むべき様々な業務に対しても、「学問を忘れない」という磯村氏の精神を受け継いでいきたいと思います。(幸田 仁)