日本橋は文字通り橋の名で、その橋が高名なるが故に橋周辺の町名ともなった。
都市計画系用語にCBD(Central Business District 中心業務地区)という表現があるが、日本橋地区は誕生当初から、江戸のCBDの役割を担っていた。当地では、近代以降も我が国の都心業務商業地区として先駆的な都市づくりの実績が積み重ねられた。そして今、大手町・丸の内、京橋・銀座、等と連坦して現代的CBDの一角を占め、国際都市Tokyoの都市力アップに貢献している。
当地では、歴史・伝統のシーズを活用しながらも、それに安住することなく、官・民の都市計画・まちづくり運動を連動させて、地域のアイデンティティ高度化に挑戦してきた。ソフト・ハード両面にわたる種々の活動のシナジー効果により、「日本橋」というエリア・ブランドの拡大再生産が実現されている。
日本橋の前史は1590年、徳川家康の関東移封に始まる。家康は城下町整備の一環として江戸城と海とを結ぶ水路の開削を命じた。この水路が現在の日本橋川(河川名は日本橋が架かる故の後世の命名)で、その上に1603年・幕府開幕の年、架橋が命ぜられ日本橋が誕生したと伝えられる。翌1604年には五街道の起点と定められ全国交通の要となった。現在も橋の中央の路面に「日本国道路元標」が設置されている。江戸の物流に水路は不可欠で、日本橋川はその大動脈。よって日本橋は人と物が頻繁に行き交う、水陸両面にわたる重要拠点であった。
日本橋という名称は、全国に通じる全ての道の始め・日本の中心にあって、架橋当時は橋上から江戸城と、西に富士山、東に筑波山が望めたという名所に相応しいが、二本(の木を渡した)橋だったからとの説もあり、命名の由来は明らかではない。
日本橋の市街地の原型は寛永年間(1640年頃)には成立していた。しかし、一団の場所としての日本橋が自他共に認識されるようになったのは維新開国後の明治11(1878)年、東京府下15区の一つとして「日本橋区」が置かれたことが契機であろう。
現在、東京都中央区の北部一帯には、日本橋本石町、日本橋浜町、東日本橋のように、住居表示に「日本橋」が入っている町が21ある。これに八重洲一丁目を加えた22町が(旧)日本橋区に相当する。
東京の15区時代は長く続いたが、昭和7(1932)年20区が新設・編入され35区となった。戦後の昭和22
(1947)年、35区から23区(当初22区、5ヶ月後に板橋区から練馬区を分離)に再編統合された。
その時、(旧)京橋区と統合して中央区となる(旧)日本橋区では、地名に日本橋を残したいとする声が根強く、各町名に「日本橋」と冠することとなった。
町名は地元の人々の「日本橋」(橋と町)への思い入れの反映。一方、一般都民がイメージする日本橋という
「まち」の範囲はどうか。大方、地下鉄の駅名や主要な商業施設の立地と名称により、南は高島屋百貨店周辺から北は三井タワー周辺に至る中央通り沿道を軸として、その東西に広がるエリア(概ね、東は昭和通り、西は外堀通りまで)といったところか。その中心に「日本橋」(橋脚)があることは言うまでもない。
一般都民がイメージするエリアを「狭義の日本橋地区」と仮に呼ぶならば、「広義の日本橋地区」(=旧・日本橋区)の中で「狭義の日本橋地区」以外のエリアには、必ずしも「日本橋」と冠さずとも個性を伴って想起される町々がある。例えば人形町や浜町といった庶民的娯楽と食通のまち、金融取引の代名詞でもある兜町、問屋街として知られる馬喰町や横山町、等だ。ちなみに中央区の観光ガイドブックには、区内をエリア分けして銀座、日本橋、 築地、月島、人形町の5つの地名で代表させたり、更に東日本橋エリア、兜町・八丁堀エリア等と区分している例が見られる。それぞれのキャラクター豊かなまちが独自の地域ブランドを持ちつつ、巧まざる相互連携で広義の日本橋地区としての多様な魅力を醸成する。それが(広義の)日本橋の固有性の一側面である。
以下、本稿では「広義の日本橋地区」の歴史や現状にも言及しつつ、近年の都市づくりの動きについては主として「狭義の日本橋地区」に関わる事項を中心に紹介する。