オーナーと建築家が暮らすまち
いまや代官山の顔となったヒルサイドテラスは、朝倉と槇とが組んで、この地の価値を増進するべく、身の丈にあわせ長い時間をかけ漸次、開発を進めてきたものである。結果的にみると、このスローな開発がよかったようで、開発の各段階で立ち止まり建築や周辺環境の使われ方を見ては内容を修正し、また建築するといった具合に、フィードバックしながらこの場所のもつ価値を順次、高めるべく丁寧にコツコツと、街並み・環境を整えてきたことで上質なまちに仕上がっている。
ここヒルサイドテラスは、オーナーが住むまちである。「一番いい場所は人には貸さずに、自分で使いなさい」という槇の助言をうけ、朝倉はこの地に住んでいる。自分の住むまちは居心地良くということで、朝倉はこの地の開発が世間の高い評価を得たこともあり、この場所にこだわり、このまちに住むことで環境の変化を見守っている。朝倉家は今では親族、9家族がこの地に暮らしている。
ヒルサイドテラスの運営管理
朝倉は資金面のこともありD棟については分譲を余儀なくされた。しかし、これはいま思うと失敗だったという。まちの環境を良い状態に保つには、施設の維持管理だけでなく運営管理も重要である。一定の生活ルールを設定し、オーナーのもつ所有権をバックに、まちをマネジメントしていくことは重要である。所有権が移ってしまうと、それが弱くなる。上質なまちの環境を保持していくためには、オーナーとしてガバメント力を最大限発揮できるようにする必要があり、そのためには分譲よりも賃貸の方が適している。
槇もヒルサイド・ウェストの完成をうけ、活動拠点としての自身の事務所をこの地に移した。そうなると、まちの動きや施設の使われ方、建物の傷みなども手に取るようにわかるようになった。こうなると正にコミュニティ・アーキテクトである。代官山のまちは、ただ建築物群を生み出したというだけでなく、その後の状況にも目配りしている。
まちの醸成ということでは、文化空間化に向け数々のイベントなども実施している。1982年から始めたSDレビューは新進気鋭の建築家の登竜門となったし、また「ヒルサイドギャラリー」は国際的アーティストの輩出に貢献した。また、1987年にプラザホールが完成すると、文化活動にコンサートなど音楽活動も加わった。さらに1992年のフォーラム誕生は、この地の生活文化拠点としての位置づけを決定的なものにした。そして1998年には「この地における文化活動」が評価され、メセナ大賞が贈られた。
環境・景観の保持へ 地区計画の策定等
ヒルサイドテラスは、第五期までの20年間ほどは低層住宅地としての法規制があり、10mのスカイラインが維持されてきた。しかし、その後、第二種中高層住居専用地域(容積率150%、高さ10m→容積率300%、建ぺい率60%)に用途地域等が変わったことで、第六期からは、この10mを超える部分を、そのまま縦に伸ばすのではなく、通りからセットバックさせるよう腐心してきた。現在、日影規制(4時間-2.5時間)と高度地区絶対高さ制限(20m)がかかっているが、それだけで沿道の環境・街並みを保持することはできない。
そこで、この地の良好な街並み・環境を維持していくため、地区計画を定めることになった。この地の地区計画は、2004年に旧山の手通りの沿道、約7.2haを対象に、良好な沿道景観の維持を目的に、緑とまちとの調和、広い空が見える開放的で魅力的な街並みの形成、また個性的で落ち着きのある環境の維持増進をめざし定められた。具体に建築規制を及ぼす地区整備計画は、この区域をさらに3地区に分け、それぞれの特性をふまえ建築物の用途や高さ(絶対高さ20m)形態・意匠について制限している。また、垣・柵の構造と緑化(通りに面する大規模敷地は接道部を30%以上緑化する)についてもルール化している。
まちの危機
関東大震災の復興事業として1927年に建設された同潤会アパート(36棟、337戸)が、2000年に東急東横線・代官山の駅前に再開発事業により更新された。この「代官山アドレス(延べ面積9.6万㎡、地上36階建・501戸)」の建設は、代官山のまちにとって、ある意味、危機であった。なぜなら等価交換方式を採用する、この大街区方式の再開発は、事業を成立させるために量的な拡大を追求していたからである。この再開発を真似て周囲でも同じような動きが出てくるとやっかいであった。それはこの地が高層マンションの林立するまちとなり、低中層の上質なまち代官山が代官山でなくなってしまう恐れがあったからである。
その心配が現実のものとなろうとしていた。この再開発ビルの建設をみて、近くで都心居住型総合設計制度を用い26階建のマンション計画が持ち上がった。高層ビルの前例があるから風当たりも小さいと読んだのか?確かに一つ例ができると、これが免罪符になって周囲に同じような開発が進みがちである。これに危機感を募らせたのが周辺の居住者・就業者である。彼らはこれに反対し、「良好な生活環境を守る会」を立ち上げる。そして都知事と区長等に「代官山のような熟成度の高い地域(地域の個性や価値が定まった地域)での総合設計の適用は、地域環境に相応しいものとすべき」として要望書を提出する。
この要請が功を奏し結局この計画は16階建に縮小される。守る会は2003年に「代官山の明日を考える会」へと衣替え、さらに2004年には「代官山ステキなまちづくり協議会」へと移行、そして2006年には区の条例に基づくまちづくりの認定団体となる。また、2007年には、代官山わが町(協議調整)ルール(身近な生活環境を見守り改善するソフト部分と、専門家と協働し開発協議の段階で調整を重ねるハード部分の両輪からなる)をまとめ区に登録した。さらに2008年には高度地区絶対高さ制限により、高層建築物は規制されることになった。
これ以降はまちづくり協議会の活動もあり、高層建築物が立地する心配もなくなった。なぜなら、これに続くLa Tour DAIKANYAMA、そしてCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)代官山プロジェクト(代官山TSUTAYA、IVY PLACE)等々の事業が、ヒルサイドテラスのまちづくり理念を理解し、これをDNAとして受け継ぎ展開されていったからである。このまちの超高層ビルが代官山アドレスくらいなら、これはむしろまちのランドマークとして存在し、ヒルサイドテラスが生み出した地域ブランドを傷つけない。
ヒルサイドテラスを軸とする代官山のまちづくりが、多くの人々の支持を受け上質さを保っていられる所以は、デベロッパーが地元の人であったこと、そして中小規模の事業者であったことが幸いしている。これが全国的に事業を進める、中央組織の大規模事業者であったなら、容積率のボーナスをもらってドカーンと大きな建築物を造り、ハイ、サヨナラ式の対応となることが想像される。
ヒルサイドテラスにおける、通りを軸とした漸進的な建築物群の整備、いわゆる長い時間をかけ街並みや環境を形成するタイプでのまちづくりは、日本の伝統的なまちづくりの方式である。だが、高度成長期においては、こうしたまちづくり方式は顧みられず、行政が主導する近代都市計画によって全国的に、街区単位での再開発型のまちづくりが勢いを得ていた。
しかし、日本のまちづくりにおいて、都市デザイン面からヒルサイドテラスが果たしてきた役割は大きい。ヒルサイドテラスは、水平方向に広がる代官山のまちの奧性を深め「場所の価値」を創出、そのDNAをもって波及効果を周辺へと及ぼし、ファッショナブルな建築物を集積させていき、代官山のまちを地域ブランドにまで押し上げていった。
森の中の図書館「代官山TSUTAYA」
2011年も末を迎えると、このまちの雰囲気を、この場所のもつ価値をさらに増進するかのように、ヒルサイドテラスに隣接し「次世代TSUTAYA」の建築物群が整備された。TSUTAYAが偉いのは、このまちのファンの心を察し、このまちの上質で落ち着いた雰囲気をさらに深めようと、この地を利用する人々に文化のアーカイブとして、豊かなライフスタイルを提案するべく、「大人の文化の場」を付け加えたことである。
具体には、TSUTAYAを展開するCCCはNTT都市開発(株)の協力を得て、約12,000m2 (3,630坪)の広大な緑あふれる敷地を舞台に、「森の中の図書館」をイメージし、次世代TSUTAYAを開設。本・音楽・映画を中心に、懐かしい作品やビンテージの貴重な作品を、まるでライブラリーのように取り揃えたほか、この商業施設内には食事や語らいを楽しめるカフェやレストラン(IVY PLACE)、そして買い物を楽しめる複数のテナントを誘致し、代官山のまちを、さらに魅力的なものにしている。
参考文献等
槇文彦 他:「見えがくれする都市」鹿島出版会1980
前田礼:「ヒルサイドテラス物語」現代企画室2002
渋谷区ホームページ「重要文化財 旧朝倉家住宅」
代官山ホームページ「ヒルサイドテラスとは、完成までの35年など」
ヒルサイドテラスホームページ http://d-hillsideterrace.com/contents/message.html
代官山のまちづくりの沿革
1869年 朝倉米店開業 (1897年 虎治郎、朝倉家に養子に入る)
1904年 虎治郎、渋谷町会議員 、1915年 東京府会議員 就任
1918年 朝倉家自邸建設(現、渋谷会議所)
1927年 東急東横線開通、同潤会代官山アパート完成
1929年 共託社アパート建設
1932年 虎治郎、東京府会議長 、1933年 虎治郎、疑獄事件政界引退
1936年 猿楽興業設立
1947年 虎治郎逝去(44年)、相続税支払いのため自邸売却
1955年 東急代官山アパート完成
1961年 鉄筋コンクリート造の静宏荘建設
1965年 槙総合計画事務所開設
1967年 朝倉家と槙文彦の出会い「代官山集合住居計画」スタート、近隣に小川軒オープン
1969年 ヒルサイドテラス第1期A・B棟完成、クラフトアサクラオープン
1971年 テナント親睦会結成
1972年 代官山プラザビル完成
1973年 ヒルサイドテラス第2期C棟完成、槙はこの件で芸術選奨文部大臣賞受賞、朝倉不動産設立
1974年 (株)アトリエヒルサイド設立
1975年 テナント会誕生、キングホームズ完成
1976年 交歓バザール開催、82年まで毎年続く
1977年 ヒルサイドテラス第3期D・E棟完成
1979年 デンマーク大使館完成
1980年 槇、ヒルサイドテラスで日本芸術大賞受賞
1982年 SDレビュー始まる、テナント会解散
1984年 アネックス着工、ヒルサイドギャラリーオープン、東急田園都市線全線開通
1985年 ヒルサイドテラス第4期アネックスA・B棟完成
1987年 第5期ヒルサイドプラザ完成
1988年 サロンコンサート始まる
1992年 ヒルサイドテラス第6期F・G・H棟完成、25周年記念誌発行
1992年 槇、プリッカー賞受賞
1998年 ヒルサイド・ウェスト完成
2000年 代官山アドレス完成
2004年 代官山ステキなまちづくり協議会発足、地区計画の策定
2007年 代官山わが町(協議調整)ルールを登録
2008年 高度地区絶対高さ制限を施行
2011年 代官山TSUTAYA、IVY PLACE完成