Vol5. 神が鎮座し、その発展を見守るまち

Vol.5 神が鎮座し、その発展を見守るまち

Vol.5 神が鎮座し、その発展を見守るまち

東京藝術大学美術学部建築科 講師 河村 茂 氏 博士(工学)

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東京藝術大学美術学部建築科 講師 河村 茂 氏 博士(工学)

東京藝術大学美術学部建築科 講師
河村 茂 氏 博士(工学)

プロフィール
1973年東京都に入都
土地・建物利用現況悉皆調査の企画実施(現況図に整理し数値化)
副都心整備計画の策定と新宿・渋谷・大崎等の開発誘導
高度地区絶対高さ制限導入の企画、新宿区で実施
その他、アークヒルズ、六本木ヒルズ、東京ミッドタウンなど再開発誘導
公団(現、都市再生機構)で東雲、豊洲の事業に従事
芸大は2007年~
単著「日本の首都江戸・東京都市づくり物語」、「建築からのまちづくり」など

 この稿では、上記のように、明治神宮に絡むまちづくりを2題取り上げる。ここに紹介する2つのまちづくりは、一方はハレの場として非日常的な
賑わいを、もう一方はケの場として日常的な安らぎを求める、対照的なまちづくりとなっているが、実はコインの表と裏の関係みたいなものでつながっている。

 これらのまちづくりをつなぐ原点を求めると、明治・大正そして江戸へと遡る。即ち、明治維新により明治天皇が京から東京へと移り、近代日本を牽引するシンボルとして国家の経営に勤しむが、その経営が軌道に乗り近代日本が産業経済発展の端緒をつけた矢先に崩御される。そこで近代日本の行く末を見守るため、代々木御料地の一部を明治神宮・内苑(渋谷区)として造営、ここに神として祀られる(詳細は各稿を参照)。
この地は皇居から見て白虎の神宿る西方に位置しており、天皇の祖先、皇室の氏神「天照大御神」を祀る伊勢神宮の真西・橿原の地に、1890年、明治天皇が初代・神武天皇を神として祀るため橿原神宮を造営したのと同様に、皇居の西方の地に自らも鎮座することになった。

 この頃、代々木御料地は、新宿御苑とともに宮内省の管理下にあった。
後の造園家・折下吉延は、大学を出ると宮内省内苑寮園芸技師として新宿御苑に奉職、御苑の管理や花壇の造成のほか、東京の街路樹づくりに向け枝木や種子の育成をめざし、代々木御料地で苗木を育てていた。
明治神宮の造営が始まると、折下は、この時期、明治神宮造営局技師として、東京を代表する並木道に育つ神宮外苑(新宿区)の銀杏並木を含む外苑の設計監理に携わる。折下は、外苑の整備にあたり、新宿御苑で採取した種子を用い代々木御料地で育てた苗木を外苑へと移植する。即ち、新宿御苑と神宮外苑の銀杏は同じDNAである。この新宿御苑、江戸期は徳川譜代大名・内藤家の屋敷地であった。徳川家は戦国の世に終止符をうち日本に平和な世を再構築するため、その活動拠点である都市江戸を防衛するため、最も守りが薄いといわれた西方の地を固めるため、ミニ関所ともいえる四谷御門を出た直ぐの、甲州街道沿いのこの地(新宿御苑から代々木までを含む広い区域)に内藤家を配置した。家康自身も江戸を守るべく、その精神的支柱として玄武の神宿る江戸の真北、北極星の方向に位置する日光の地に、東照大権現として祀られる。そうして近世日本は265年間もの長きにわたり平和を維持し文化の発展をみる。

 新宿御苑は、今日、皇居外苑そして京都御苑とともに、日本に三つしかない国民公園として位置づけられ、「大喪の礼」や「園遊会」の会場となるなど皇室とも縁が深い。また、新宿御苑は、国民からの献木ないし寄付と勤労奉仕によって造られた明治神宮の内苑・外苑とともに、今日、都市の森として都市資産を形成し、東京都心部にあって貴重な緑のオアシスとなっている。それでは、そうした場所のもつ固有性をふまえた、それぞれの魅力的なまちづくりについて紹介しよう。