原宿・表参道のまちは、江戸時代、武家屋敷と田園とが混じる郊外の地で、都市江戸を護るべく配置された甲州街道(新宿通り)の内藤家、大山街道(青山通り)の青山家の広大な屋敷地の、そのまた外にあった。この地は、明治に入り山手線や路面電車が開通するなどして、華族や高級官僚の住宅地へと変わるが、大正期に、この奥に近代日本の守り神として明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮(約73ha)が造営され、ケヤキ並木の参道が整備されると、和風のお屋敷まちにも変化が見られるようになった。
即ち、関東大震災を経て昭和に入ると、震災復興ということで、義捐金を用い同潤会が近代的な都市居住のモデルを提供するべく、耐震不燃の鉄筋コンクリート造青山アパート(138戸、1927年完成)が建設される。この欧風モダンな青山アパートは東京市民の人気を集め、安藤忠雄設計の表参道ヒルズに建替わるまで約80年間まちの顔となる。しかし、この地も太平洋戦争末期に空襲を受け神社の社殿が焼失、当初は200本を数えた表参道のケヤキも、青山アパートの前辺りに僅か13本ほどを残し焼失してしまう。これを憂えた地元造園業者が私費を投じ、1949年春に新たに161本を植栽し再生させる。
戦後、明治神宮に隣接する代々木練兵場跡地にワシントンハイツ(GHQ将校や家族の居住施設、約92ha、827戸)が立地すると、このまちにはシボレーやクライスラーなど外車に乗ったアメリカンが多く集まり、米軍将兵とその家族などを相手に、欧米のおもちゃや東洋の骨董品また日本の土産物などを商うキディランド、オリエンタルバザール、富士鳥居といった店が立ち、東京の中でアメリカを感じるハイカラなまちに変わっていく。だが戦後復興期までは、通りに交通はほとんどなく大きな空間だけが目についた。
その後、日本は経済発展を遂げ1964年の開催をめざし、東京オリンピックが誘致されると、ワシントンハイツはオリンピック公園(約62ha)へと変わり、世界的建築家・丹下健三氏の代表作である代々木第一体育館や選手村などが建つ。これを機に原宿駅近くには原宿セントラルアパート(1958年完成)やコープオリンピア(1965年完成)など、今日のマンションのはしりとなる洋風長屋が建設され、時代の先端で活躍するカメラマン、デザイナー、コピーライターなどが事務所を構えたことから、この地は各種文化が融合するクリエイティブなまちへと変わっていった。
このころ経済成長をうけ都市の拡大化傾向が顕著となり、この地は周辺住宅地から次第にインナーシティ化し商業の軸が形成される。そしてVANやJUNなどの店舗が建ちDCブランドブームが訪れると、アンノン族が街中を闊歩したり、竹の子族がパーフォマンスを演じるなど、社会風俗の先端地となっていく。また、バブル経済を経て都市が成熟すると、ディオール、グッチ、ルイ・ビトンなど海外の高級ブランド店が立地、売れっ子の建築家の競い合いもあり、街並みがファンタスチックなものに変わっていった。