場所の固有性(緑の杜と並木、門前の参道まち、祝祭のまちとして通りの文化を発信)

Vol5.1 原宿・表参道 神宮門前の参道まち、通りを軸に祝祭まちづくり
近代日本の守り神・明治神宮、杜と並木がつくる非日常、賑わいのまち

Vol5.1 原宿・表参道 神宮門前の参道まち、通りを軸に祝祭まちづくり
近代日本の守り神・明治神宮、杜と並木がつくる非日常、賑わいのまち

東京藝術大学美術学部建築科 講師 河村 茂 氏 博士(工学)

4.7 UPDATE

場所の固有性(緑の杜と並木、門前の参道まち、祝祭のまちとして通りの文化を発信)

 しかし、今日につながるこのまちの原点は、明治神宮の造営にあるといってよい。明治神宮は、近代日本の象徴として明治天皇を祀る社で、多くの人々の協力を得て造営された人工林の中に佇んでおり、毎年、初詣(大晦日から正月三が日の間)には日本一の参拝者(約300万人)を集める集客施設でもある。この神宮があるからこそ参道がつくられ、厳かな雰囲気を醸すケヤキ並木が配置されている。この杜と並木が中心市街となった今日も、緑の核と軸として、この地に存し地域価値を体現していることから、原宿・表参道のまちの魅力もアップしているといえる。

 このまちの固有性は、何と言っても多くの人々の奉仕によってできた、明治神宮の人工の杜と並木そして門前の参道まちとしての祝祭性にある。主要な集客施設は、時代とともに明治神宮からワシントンハイツ、代々木公園(オリンピック施設)などへと変わるが、ケヤキ並木の両側に広がるこのまちは、時代のニーズに対応し徐々に賑わいを増している。即ち、和風のお屋敷街から欧風住宅団地としての同潤会青山アパートや米軍家族宿舎・ワシントンハイツの時代を経てインナーシティ化し、国際色豊かなオリンピック公園へと変わり、近代社会が成熟期に入った昨今では中心商業地として海外ブランドを売るショップが多数立地するなど、この地は日本経済の成長・都市東京の拡大とともに、住や衣などの分野で時代の先端をゆく生活文化(流行など)の発信地としての役割を果たしている。はじめは厳かに、そしてハイカラに、また昨今ではオリンピックを契機に多彩なイベントも実施されファッショナブルにと、次第に楽しく賑やかになってきているが、ケヤキ並木の参道に広がる神宮門前の祝祭性をもったまちとしての性格は今も変わらない。

明治神宮

 欧米列強による植民地化の恐怖から脱するべく、富国強兵の理念のもと近代化を進めた明治政府、その象徴としての明治天皇が1912年7月30日に崩御されると、これを伝え聞いた国民の間に、「御神霊をお祀りし、その御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたい」という機運が起こる。大葬が青山練兵所で執り行われることが決定すると、早速、東京市長阪谷芳郎、実業家の渋沢栄一らは、東京の商業会議所に集まり、明治天皇を祭神とする神社の建設に向け知恵をめぐらす。なぜなら、天皇の業績、遺徳を偲ぶ記念事業として一大公園を造ろうとの声が上がり、世論もこれを支援していたからである。実は、渋沢ら明治の指導者たちは、別のことを考えていた。即ち、ようやく軌道に乗った近代日本の経営ではあるが、まだまだ油断ならぬ状況にあり、天皇の権威を借りて、ひ弱なこの国を守り育てていく必要があり、天皇には近代日本の祖として神になって、首都に鎮座し各種勢力をおさえる精神的支柱として、近代国家日本の行く末を見守ってもらう必要があり、従って、社殿の位置する辺り一帯は神域とし、厳かな雰囲気が醸し出されなくてはならないと・・・。これは天皇の事績を讃える大公園構想とは明らかに矛盾する。

 この目的の異なる両論を視野に入れ、渋沢らは知恵を絞った。そこで考え出された答えは、ある意味両論併記であった。渋沢らは伊勢神宮の内宮・外宮にヒントを得て、明治神宮を内苑と外苑とに分け、内苑の方には明治天皇を神とする社殿を造営し、外苑の方で記念公園事業を展開することにした。要は折衷案である。なかなか日本的な答えの出し方である。

 また、神宮造営の場所の選定にあたってももめた。帝都東京のほか富士山、筑波山など全国各地から13もの候補地があがった。しかし、近代日本の祖として近代国家の行く末を見守ってもらうには、首都東京に鎮座するしかなかった。明治天皇は維新間もない頃、この地に遷都し近代日本の礎を築いた、また東京は全国から多くの参拝者が訪れやすい場所でもある。

 しかし、東京に決まってからも、具体にどの地にするかでもめた。天皇の大葬を行った青山練兵所や皇室の代々木御料地のほか戸山学校や白金火薬庫跡地なども候補地にあがったが、「軍兵が踏み鳴らした青山練兵場の跡地ではいかにも」といった声が出るなどした。結局、天皇自身が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んでいたこと、またお身体の弱い皇后が代々木の地をこよなく愛し、天皇も皇后をいたわり、花菖蒲を植えるよう指示されたことなどもあり、代々木の南豊島世伝御料地に決まった。これに伴い記念事業の地は青山でということになった。渋沢らは、そうした話し合いのあらましを一つの覚書にまとめた。天皇崩御から一月と経たぬ8月20日のことであった。この覚書の中に、内苑は国費を主体に、また外苑は献費をもつて造営する旨が記された。

 内苑は1640年に徳川幕府の重鎮、彦根藩井伊家の下屋敷が置かれた場所である。(これ以前は加藤清正の別邸があった。)この土地は、明治になり1884年に宮内省がこれを買い上げ、以来「代々木御料地」とされてきた。造営当時は畑や草地、沼地であった。内苑は、社殿の存する場所に相応しく神域として設定され、森厳さを醸す永遠の森を造営するべく、この敷地の気候風土に留意し土地本来の植生を活かし常緑広葉樹を主体に造園されることになった。そして明治天皇御一年祭を終えた10月28日、神宮創設のための調査会の設置が閣議決定され、この調査会で慎重審議のうえ奏請、造営は1915年に大正天皇の御裁可を得て決定告示、内務省に明治神宮建設に向け造営局が設置され、これ以後5年半の歳月をかけ工事が施行、1920年に鎮座式が挙行された。

 この神宮造営においては、林苑計画(1921年作成)の策定にあたってもひと悶着あった。即ち、「内苑は神域ということならば森厳な雰囲気を醸すに相応しい針葉樹で森を造林すべき」との声が多々出ていた。時の宰相・大隈重信も、その一人であった。しかし、針葉樹は煙害に弱く。当時、近代化のシンボルとして東京のあちらこちらに工場が建ち、煙突からもくもくと煙を出していた。また、都会のこの地の気候風土や土壌(関東ローム層)植生などからすると針葉樹は育ちにくいとの意見が強くあったこともあり、結局この地に適した常緑広葉樹を主体とすることになった。

 造成計画は、日比谷公園を設計した林学博士で造園家の本多静六らが担うことになった。彼らは植栽後150年前後の時を経て天然林相に到達することを目標に、人工林の造成計画を練った。彼らは目標の到達に向け、四つの段階を踏んで遷移していくことをイメージし、整備計画をとりまとめた。即ち、第一段階は造営当初の段階で、いわば仮設の段階である。赤松、黒松が主体となって上冠木を形成、それらの木々の間に成長の早い檜や杉等の針葉樹を配し、その上で潅木類を下木として植栽する。第二段階は、その数10年後の対応となるが、この段階では先に植えた檜や杉等の針葉樹が林冠最上部を占める松を圧倒し、これに代わって最上部を支配するようになると想定した。これに次ぐ第三段階は、樫や椎、楠など広葉樹が林を支配し、これらの樹間に檜や杉等の大木が混生する状態である。第四段階は、樫や椎、楠などの広葉樹がさらに成長することで、針葉樹が消滅してしまう段階である。ここに至ると正に天然の森を形成した状態となる。その後に行われた現況調査によると、植林後50年の段階でほぼ計画通り針葉樹・落葉広葉樹・常緑広葉樹の構成割合は、当初の2:1:1から1:1:2へと大きく変わっていた。

 こうして渋沢らが熱望し実現を夢見た明治神宮の森が、場所の価値を体現するかのようにして時により育てられ、東京という都市の中で徐々に、その存在感を発揮するようになっていった。

 造林にあたっては、物価高騰もあり国家予算が十分見込めないことから、全国各地からの献木で対応することになった。そこで植栽計画に基づき、献木の「受納方針(園芸用の品種や果樹、また外国産のものは制限)」が定められ、全国各地から樹木が集められた。1920年の鎮座時における樹木本数は365種122,572本である。このうち購入したものは2,840本、他官庁からの譲受木は8,222本、残る95,559本は献木で、その割合は全樹林の80%にものぼった。造営にあたっては、全国の青年団(209団体)から13,000人(延べ約10万人)もの人が参加し、勤労奉仕で行われた。もちろん地元の造園業者もこれに加わっている。現在は約17万本245種の豊かな森に成長しており、国民の心のふるさと憩いの場所として親しまれている。