1964年東京オリンピックの前年に建築されたマンション「エンパイアコープ」、その敷地はJR総武線の「千駄ヶ谷」駅より徒歩6分、都営大江戸線「国立競技場」駅より徒歩5分の所に位置している。この地は新宿御苑に隣接、かつ神宮外苑に近接しており、緑豊かで閑静、都市に暮らすには、この上ない絶好のロケーションにある。しかも、このマンションは、建設当時から「冷暖房」や「給湯機」が標準装備された高級マンション(地上7階地下1階建で総戸数69戸)として、高いステータスを誇っていた。
しかし、築40年を超え設備を中心に建物の老朽化はいなめず、竣工から30年を経た1994年頃から建替えの話が出始めていた。だが、そうした話が住人個々の思いから、管理組合の問題として具体に取り上げるようになるのは、1997年に阪神・淡路大震災が起こってからである。この大震災を機に、建物の耐震性に不安を抱いた住人が中心となり、マンション内に「建替委員会」が発足する。
そして都心の大規模な緑に近接する好立地を活かし、安心して長く住み続けられるよう、マンションの建替えをめざし動き出す。というのも建築規制の緩和があり、廊下や階段、昇降機などの共用部分が容積率規制の対象から外れるとともに、都心居住型の総合設計制度を活用すれば従来の3倍近い床面積を確保でき、そうして新たに創出される住戸を処分すれば住民負担なしで建替えられると見込まれたからである。
このマンションの住人でもある一級建築士事務所の所長は、住人の賛同を得て総合設計制度の活用をイメージし、超高層マンションの建替構想をまとめ行政との事前相談に入った。2004年のことである。計画建物の高さは約116m、地上36階建である。
マンションの住戸は、隣接する御苑のほか東京都心の風景が手に取るように楽しめるパノラマ・ビューを享受、足下には緑のオープンスペースを配置し地域に開放する。また、この計画は国や都また区の進める、耐震上問題のある老朽マンションの建替えであり、新たに創出される住戸も含め都心居住を推進、住民の居住継続にも貢献するなど、好ましい内容となっている。こんな素晴らしい夢のような計画はないと、設計者も住人も自負していた。ところがである。設計者が、この自信満々の計画を区に持ち込んだところ、応対した区の担当者は話を聞くなり直ぐに渋面をつくった。そしておもむろに口を開き「この計画は、この場所に合っていない。」といった。設計者として全くの想定外の言葉が、担当者の口を突いて出てきた。それは法制度上の問題というよりも、多分に担当者が長年培ってきた感性から発せられた言葉のように設計者は感じた。
「この場所にあっていない。」それではこの場所とは、いったいどんな場所だというのか。歴史を辿ると、この地は桜で名高い信州信濃の高遠藩、内藤家の屋敷地跡だという。その広大な屋敷地跡の一角に、このマンションは位置していた。この地は江戸府中と域外とを分ける四谷御門の前にあり、ここで玉川上水が分岐し、渋谷川へと注ぐ水道が敷地内を通っている。しかも高遠の殿様・内藤家の子孫は、いまでも新宿に住んでいるという。
内藤家とは何者かというと、徳川家康の江戸入府に際し先方を務めた由緒ある家柄で、入府後は平和安定を政治理念に掲げ、その活動拠点を「防衛都市」として整備する徳川政権において、江戸で最も守りが薄いといわれた西方の守備の要として、ミニ関所ともいえる四谷大木戸を出た直ぐの場所に、「護り」の要として配置されたのが内藤家である。即ち、内藤家には、都市江戸を護る、その門番ともいえる役割が与えられていた。
その後、この内藤家の屋敷前には江戸入りに備え、大名らが長旅の疲れを解いて身支度を調える場として、自然発生的に宿場ができた。これを内藤宿という。その後、江戸の高度成長期にあたる元禄の頃、浅草の町人が願い出て、これに代わる本格的な宿場町として開発されたのが「内藤新宿」である。明治になり内藤新宿の内藤がとれて、まちは単に「新宿」と称されるようになった。そうした意味で新宿のまちの原点ともいえる場所である。
というわけで、この地には都市江戸=東京を「まもる」という意味のDNAが組み込まれており、また今日の新宿のまちの地名の起源ともなっている。明治になり、内藤家屋敷地の大部分が皇室御料地となり、新宿御苑の地は宮内省を経て環境省へと所管が移るが、この地はそうした時の移ろいを反映するかのようにして、歴史を重ねてきている。即ち、この地は大正・昭和の歴代の天皇の「大喪の礼」の式場となったり、内閣総理大臣が主催し天皇ら皇族が列席する、春の園遊会「桜を観る会」の会場としても使用されている。また、新宿御苑は京都御苑や皇居外苑とともに、日本に3カ所しかない国民公園として位置づけられ、風致を重視した公園として整備されている。
このように新宿御苑の地には、要人の警護という治安の面、また国民の財産としての公園風致の保護という環境・景観面からの要請があり、広く「まもる」という概念が漂っており、超高層のマンションは感覚的に忌避される対象でしかなかった。「まもる」は、この地のDNAであり、この場所のもつ固有性につながる。新宿御苑に隣接する内藤町は、その良好な居住環境を維持しようと、地区計画を策定し10mの高さ制限を設けている。その後、この御苑を囲む地は、景観条例により文化財庭園等景観形成特別地区に指定される。
■新宿御苑
新宿御苑のルーツは、徳川家譜代の家臣である内藤家の江戸屋敷にある。この屋敷の範囲は東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保にまで及んでいた。内藤家が、この地に居を構えたのは、防衛都市として建設された江戸で最も護りが薄いとされた西側において、江戸から西へとのびる甲州街道や青梅街道が、鎌倉街道と交差する要所にあり、ミニ関所としての四谷御門を出た直ぐの場所の、この地を軍事目的からしっかり固めるため、徳川家康が江戸入府の際、その先方を勤めた最も信頼のおける譜代の臣・内藤清成に、この地の守りを任したことに発する。
新宿御苑は広さ約58.3haを有し、園内には3つの庭園が配置されている。1つは旧内藤家下屋敷に造成された庭園『玉川園(1772年に完成)』の遺構をベースとし、玉川上水の余水を利用してつくった「玉藻池」を中心とする回遊式日本庭園。2つには、プラタナスの並木が美しい「フランス式整形庭園」、そしてさいごに、広大な芝生と樹高40mにも達するユリノキがそびえる、明るくのびやかな景観を呈するイギリス風景式庭園である。この風景式庭園は、我が国では数少なく、しかも名作といわれている。
新宿御苑の植物園としての発祥は、1872年に近代農業、特に園芸の振興を目的に、内藤新宿試験所が設置されたことに始まる。1879年には、宮内省所管となり「新宿植物御苑」として皇室の庭園となる。この時代、東京は近代都市の体裁を整えるべく、プラタナスとか、ユリノキ、ヒマラヤシーダーなど、多くの外国産樹木を取り寄せ、東京の街路樹の育成に向け試験研究が進められていた。実際、挿し枝、種子の供給など重要な役割を果たした。
御苑内の樹木の数は1万本を超えており、桜は約1300本あり、春には花見の名所(日本さくら名所100選に選定。)として大勢の観光客で賑わっており、4月には内閣総理大臣主催の「桜を観る会」が開催され、政財界や文化・芸能、スポーツ界など各界の著名人1万人前後が招待される。